2006年05月19日

月詠みの歌 

月々に 月見る月は 多かれど 月見る月は この月の月・・・*

月を詠んだ唄は星の数ほどあります。
その中の月は古今東西変わらず妖艶にそして優しく輝いていたのでしょう。
どの時代の月も妄想を掻き立ててやまない・・・・

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『にぎたづに 船乗りせむと 月待てば
          潮もかなひぬ 今はこぎ出でな』 (額田王)
「月が満ちて海も穏やかだ、さぁ出発しよう」という気持ちを歌にしたこの歌と

海の上に豊かになびく雲に落日が輝き今夜の月は清らかであってほしいと詠っている
『わたつみの 豊旗雲に 入り日さし
        今夜の月 さやかけりこそ』(中大兄皇子)
という歌が月を詠んだ歌としては日本で一番古ものだそうです。

『天の海に 雲の波立ち 月の船
       星の林に こぎ隠る見ゆ』 (柿本人麻呂)

夜空を海、月を船、そして一面に輝く星を林に見立て月が動く様子を詠ったもの。
万葉三歌人と呼ばれる、柿本人麻呂・山部赤人・山上憶良の中で
月の歌を詠んだ歌人は意外にも柿本人麻呂だけだそうです。

『月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ
               わが身ひとつの 秋にはあらねど』 (大江千里 )
月を見ていると「あの人は今ごろ何をしているのだろう…」と
さまざまなことを考えはじめ、心が乱れ物悲しくなってくる。
私一人の為に秋は来るものではないけれど…

秋の月を見ているとなんだかもの悲しくなるというような意味。
たしかに秋の夜長に月を眺めているとせつない気持ちになります。

『雲いでて 我にともなう 冬の月
     風やみにしむ 雪やつめたき』
『あかあかや あかあかあかや あかあかや
     あかあかあかや あかあかや月』
『山の端に われも入りなむ 月も入れ
     夜な夜なごとに また友とせむ』 (明恵上人)<冬の月>の歌三首

明恵は「夢記」という夢の記録者であり
同時に華厳宗中興の祖としての思想家であり
さらに月をこよなく愛し、月を歌った歌が多いため「月の歌人」と呼ばれた歌人。
『ふるさとの やどにはひとり 月やすむ
         思うもさびし 秋の夜のそら』(明恵上人)
「月の歌人」と呼ばれた程の人らしく感動そのままを表したものが多く
澄んだ月光の冷たく凍るような趣とは異なり
自然や人間に対する暖かく深い、細やかな思いやりが感じられます。
 
 
『天の原 ふりさけ見れば 春日なる
      三笠の山に 出でし月かも』(阿倍仲麿)
「大空を見上げれば、うつくしい月が出ている。
この月は、私の故郷、春日野の三笠の山に出ていた月と同じではないか。
ああ、月を見るにも故郷が恋しく思える」

『今来むと いひちばかりに 長月の
      有明の月を 待ち出でつるかな』(素性法師) 

「今から行くと言ったその言葉を信じて秋の夜長を待ちましたが
結局は夜明けの月を待つことになってしまった」

 
『有明の つれなく見えし 別れより
      あかつきばかり 憂きものはなし』(王生忠岑)

「有明の月が無情に空に残っているように
あなたの態度が冷淡に見えた別れの時から夜明けほどつらいことはありません」

月というのは、冷淡とか冷酷とか
寒々とした感情を伴って見られることが多いように思います。
日の光がゆらゆら、ぎらぎらと揺れているのに対して
月の光はまっすぐに地上に届くからでしょうか。

『有明の 月ばかりこそ 通ひけれ
      来る人なしの 宿の庭にも』(伊勢大輔)
 
「有明の月ばかりが訪れています。人が来ない私が住んでいる宿の庭にも」
 
『朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに
      吉野の里に 降れる白雪』(坂上是則)

「ほのぼのと夜が明けそめる頃 まだ空に残った月から
光がさしているかと見まがうほどに吉野の里には白雪が降り敷いていることです」
 
『夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
      雲のいづこに 月やどるらむ』(清原深養父)

「短い夏の夜は、まだ宵のうちだと思っているうちに明けてしまったけれど
(月も沈む暇もないだろうに)雲のどのあたりに月が宿っているのだろう」
月といえば秋のものと思いがちですが
こういう夏の月というのも面白い視点です。
確かに夏の夜は短く、特にこの歌の時代の夜というのは
一時の逢瀬を楽しむ貴重な時間でもあったわけですから
それが短いというのは恋する人々にとってはさぞ由々しき問題であったでしょう。
この歌の作者はいかにものんびりとそれはそれとして
夜の短さを楽しんでいるようにも感じられます。
 
『めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに
      雲がくれにし 夜半の月かげ』(紫式部)

「久し振りに巡り会った人が、懐かしいあなただとはっきり分からないうちに
あわただしく帰っていった。
まるで夜半の月がたちまち雲に隠れてしまうみたいに…」

この意味の他にもう一つの解釈があるそうです。
作者の紫式部は、夫と早くに死別しています。
「(縁あって)巡り会って結婚したあなたなのに
私があなたをどういう人だとはっきり分からないうちに
雲隠れしてしまった(=死んでしまった)」という解釈も出来そう。
彼女の書いた「源氏物語」にはたくさんの男女の話が出て来ますが
彼女自身決して長くはなかった結婚生活にどういう思い出を残していたのでしょう。 
 
『やすらはで 寝なましものを 小夜更けて
      かたぶくまでも 月を見しかな』(赤染衛門)

「ためらわずに寝てしまったらよかった(あなたが来てくれるかと待っていて)
夜が更けていき、月が山の端に傾くようになるまで眺めていた」

月が西の山の稜線に傾いていくのを見て
夜が更けていく(時間が経過する)のを感じる。
好きな人を、ただひたすら待っている。
 
『心にも あらでうき世に ながらへば
    恋しかるべき 夜半の月かな』(三条院)
「心ならずもこのつらい世に生き長らえたなら
今夜宮中で見る月が恋しく思い出されることであろう」

作者の三条院は第六十七代天皇です。
生来病弱の上に眼病を患って失明の危険性もあったとか。
その目で月をながめ「憂き世」を嘆き悲しんでいるのですから悲劇的な情景です。
それを知らずにこの句を読んだ時、上の句(心にもあらでうき世にながらへば)は
思い通りにいかない恋を嘆いたものだと思ったのですが
生きる、ということを「不本意ながらも生き長らえる」と言ったのには
このような背景がありました。
 
『秋風に たなびく雲の 絶え間より
    もれ出づ月の かげのさやけさ』(左京大夫顕輔)

「秋風にたなびく雲の切れ間から洩れ出た月光の清らかなことよ」
この歌に出てくる月はどんな月でしょう。
もれいづる月の「影のさやけさ」ですから月光はあくまでも明るく
その為に出来る影はくっきりと黒いのでしょう。
ふっと見上げた空に雲がたなびき、切れ間から鮮やかな一条の月光が射してくる。
十六夜の月あたりが似合いそうです。

『ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
    ただ有明の 月ぞ残れる』(後徳大寺左大臣)

「時鳥(ほととぎす)の鳴いた方角の空をながめると(その姿は見えなくて)
ただ有明の月が空に残っているばかりだ」
季節は夏、暁というのは今で言う午前4時前頃でしょうか。
東の空がようやく白み始めるかどうかという時分
もちろん辺りは森閑として微かな物音もないでしょう。
そこへどこからか時鳥の鳴く声が聞こえてきます。
ただしこの暗さですから、声の方角を眺めてみても姿が見えない
それでもそちらを向いたのは、世の中すべてが寝静まっているようでも
自分以外にも寝ずに動いているものがいる(=私は独りではない)という
安堵感を求めていたのでしょうか。
 
『なげけとて 月やは物を 思はする
    かこち顔なる わが涙かな』(西行法師)
「思い嘆けといって月が私に物を思わせるのか。(そうではないのだが)
月の所為であるかのように流れる私の(恋の)涙であるよ」

夜も更けて周りが寝静まった頃、眠れずにふと見上げた空に月が煌煌と輝いている。
誰が見ていてくれるわけでもないのに、ただ一人、惜しげもなく
その美しい光を地上に降り注ぎながら…
ありふれた月夜の風景がそんな風に見えたら
つらい恋を思って涙の一つもこぼれるでしょう。

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今日はどんな日でしたか?
小さいけれど、やわらかに心を照らしてくれる光に出会いましたか?
それとも未来を明るく清かに照らしてくれる光ですか?
でももし、心に暗闇が訪れてしまった時はのんびりとひと休み…。
優しい月の光に照らされ夜を過ごし、体も心も穏やかな眠りのうちに癒され
希望の朝を誰もが迎えられたらと心から思います。


 「月の横顔」
大鹿節子五行歌集
心遊び/花あかり/菊のはながら/お月さまの横顔/ひたむきに/
落葉かさこそ/渇水のまち/夢紡ぎ〔ほか〕
月の横顔

 「月のものがたり」
月の光がいざなうセンチメンタル&ノスタルジー
月の文学と美しい姿を思い起こす本
和歌、俳句、詩、エッセイ、短編小説など月をモチーフにした作品を厳選
日本の風景に映える美しい月夜の描写・写真と共にまとめた
「読んで、見て、感じる」1冊

月のものがたり

 「月の記憶]
美しい月が織りなす写真集。
詩人・歌人たちが月を見上げて歌った名作が
様々な表情をみせる月とともに読む人の心にしみいっていきます。
月の記憶

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Posted by sara1116 at 17:46│Comments(0)clip!月の言ノ葉