2010年02月06日

月待  

[下弦]   ◆次の新月まであと 8日

月の星座 2010. 2 /5  1: 56〜 蠍座
           2/7  9:04〜 射手座

 MyAstroChart☆ムーンカレンダー 
月の星座(サイン)・満ち欠け・他天体とのアスペクト・ボイドなどを見るムーン・カレンダーです。


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pinmppnb月を待ちながら


日本はその昔、月の満ち欠けによる太陰暦を使っていたのはご存知でしょう。
昔の人たちは、月を生活に直接関わるものとして大切に扱ってきたのです。

月が空に現れる時分を呼び名にした「立待ち月」「居待月(いまちづき)」
「寝待月」「更待月(ふけまちづき)」「有明月」などは
昔の人のセンスの良さを感じます。

毎日、月を見上げて生活する中で生まれた風習が
月齢ごとに集まって月を拝んだ「月待信仰」です。

中秋の名月を愛でるお月見もその一つですが
中でも真夜中に上弦の月が上がるのを待つ「二十三夜講」は全国で盛んになりました。
近隣の人たちが集まって酒を酌み交わしながら月を待ち
そのまま夜明かしをしたといいます。
娯楽の少ない時代の「講(集まり)」は人々の楽しみだったのでしょう。
しかし明治の文明開化とともに廃れ、今では全国各地に残る
二十三夜塔」という碑だけが当時の賑わいを思わせます。
けれど、人が集まろうとそうでなかろうと月は満ち欠けを繰り返しながら
変わらぬ美しさで夜空に輝いています。

下弦の半月は旧暦でいえば二十三日頃
月としては二十三夜の月 (にじゅうさんやのつき) と呼ばれます。

二十三夜の月、すなわち下弦の半月といえば
月の出は日付が変わる午前零時 頃。
月待ちというからにはこの時刻まで起きて月を祀る行事と思われがちですが
そうではなくて、月が出を待つのはもちろんのこと
月が出た後も、夜が明けて日が出るまで夜を徹した行事だったそうです。

夜半過ぎに月待ちをすると願いごとが叶うといわれています。
静岡県富士郡では、二十三夜の月を拝んで寝ると
病気にならないという言い伝えがあるとか。

 俳諧の二十三夜を誰と待たん (景山荀吉)

pinmppnb月待について

十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など
特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待って供物を供え
飲食を共にすることをいいます。
毎月祀(まつ)る例は少なく、正月、5月、9月の3回、あるいは正月
11月の一定の月を祀る所が多くあります。
月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの
性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど
さまざまあります。


pinmppnb二十三夜塔

二十三夜塔は、月待ち行事「二十三夜講」に関する石碑だそうです。
月待ちの行事は、旧暦の十五日、十六日、二十二日、二十三日の晩などの特定の夜に
勤行や飲食を共するもので、これを記念した塔が造られたものだそうです。
そして二十三夜塔は全国に普及し
特に関東地方や長野県に多く見られるとのことです。
また二十三夜は「三夜待ち」「産夜」とも呼ばれて
多くは女性の講だともいわれてるそうです。

旧暦の二十三夜と言うと、月齢では約22の下弦の月となり
真夜中頃に東の空から半月が昇ってくる夜にあたります。
このような晩、先人は何か神秘的なものを感じたのでしょうか。

 月時館 : 月待塔 


23m
府中市郷土の森博物館  
プラネタリウム前に展示されている二十三夜塔


 日星月の文化財 


pinmppnb二十三夜待

月待というのは、一般にある特定の月の出を待って
これを拝する行事とされています。
月齢によって、十五夜から二十六夜までさまざまな月待が知られていますが
もっとも多く行われたのが二十三夜待です。
ほぼ全国的にみられるもので
月待といえば二十三夜待をさすといってもよいほどです。
多くは地域ごとに「講」が組織され
神道や仏教などの影響を受けながら継承されてきました。

月待講と称される行事は、現在も各地で細々と行われていますが
その実態は産泰講や庚申講、念仏講などとの習合が顕著で
内容も地域の社交的な寄り合いに終始しています。
したがって、本来の月の出を待つという形態はほとんどみられなくなりました。

太陰太陽暦では、基本的に毎月23日に月齢二十三近い月がめぐってきますので
三日月信仰などと同じように、もとは月ごとにこれを祭っていたものと考えられます。
ただ、各地の記録をみますと、正月・5月・7月・9月・11月という事例がほとんどです。
これは月待に限ったことではありませんが、陰陽五行思想の影響で
陽の数である奇数月が重んじられた結果と思われます。

なかでも11月23日の二十三夜待は「霜月三夜」としてよく知られています。
この時期は、旧暦では冬至にあたっており、古来からのタイシ信仰と
習合した事例などもあって複雑です。
具体的にどのような二十三夜待が行われていたかは
各地の伝承からその名残を見出すことができますので
いくつかの事例を紹介します。

* 茨城県龍ヶ崎市
旧暦の毎月23日に行っていました。
参加者が飲食をしながら月の出を待ち、これを拝んだといいます。
三夜さまは「お金の神さま」といわれています。

* 群馬県千代田町
旧暦23日が二十三夜の縁日で、特に正月と7月がにぎやかでした。
夜遅くまで月の出を待ち、これを拝みました。

* 千葉県野田市
30年ほど前まで、旧暦の毎月23日に行われました。
二十三夜の月の出は、仏さまの姿に見えるといわれ、念仏を唱えながら拝みました。
三夜さまは女性だけの行事であり、念仏は一番から三番まであったようです。
行事が終わると、全員で三夜さまの石塔にお参りしました。

* 山梨県小菅村
二十三夜の月待は、旧暦の毎月23日に行われ
皆が集まって月の出を拝みました。

* 長野県上伊那郡
三(サン)は産につながるもので
女性は安産を願うために講をつくりました。
月が上がるまで外に立って待ち、そして願をかけることを習わしとしました。
これをオタチマチといいます。

 月待の滝 茨城の自然

 芭蕉月待ちの湯 

pinmppnb月をめぐる信仰

月は、地球にもっとも近い天体です。
古来より天文・暦法や信仰の対象としてかかわりの深い天体であり
夜の闇に貴重な明かりをもたらす存在感は絶大で
太陽とともに多くの神話や伝説、伝承に登場します。
身近なところでは、太陰太陽暦に象徴されるように
永い間人びとの生活のリズムを支配してきた歴史があり
月のもつ神秘さや力にあやかりたいという姿勢が
仏教をはじめとする宗教思想と結びついて
「月をめぐる信仰」へ発展したものと考えられています。

十五夜行事などにみられるように、近世以降は庶民の間にも
ようやく観月などの慣習が広まってきたようですが、その背景には
都市の発達と都市住民の生活様式の変化が大きくかかわっているようです。

月待に関する史料は少なく、その実態についてはよくわかっていません。
中世の月待に関する重要な資料としては
15世紀の中ごろに出現する「月待板碑」(つきまちいたび)があります。
これらの板碑からは、当時すでに月天子すなわち勢至菩薩(せいしぼさつ)が
月待の本地仏として信仰されていた状況を窺うことができます。
勢至菩薩は二十三夜待の主尊とされますが、中世の月待板碑には
「二十三夜待」の文字は表れていません。

近世に入ると、月待信仰は各地で隆盛期を迎えます。
月待板碑に代って、さまざまな形態の月待供養塔が造立されるようになり
月待自体も目的に応じて講が組織され、多様化が進展しました。
地域によっては、ある特定の信仰日に集中して行事が営まれるようになりました。
このうち、十九夜待と二十二夜待では女人講による如意輪観音を主尊とした
安産祈願の行事が主流をなし、二十三夜待の信仰とは
一線を画した展開がみられます。
二十六夜待の信仰も、近世になって顕在化してきたものとみられ
江戸では都市文化の一端に組み入れられた近世後半に
大流行をみせた時代がありました。


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月待塔
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宙の名前

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Posted by sara1116 at 10:23│Comments(0)TrackBack(0)clip!月の行事

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